破間川(あぶるまがわ)は魚野川右岸に広大なその流域を持ち、周囲の豪雪の山々を「へ」の字型に開削する魚野川の最大の支流である。和訓とは思えぬ「あぶるま」という読みなしはアイヌ語に起源を持つという説が強く、少なくとも平安時代まではこの地に住んでいたであろう大和民族以前の人々の息づかいが聞こえるような気がする。
「ア・プ・ル・マ」:「我ら・下る・道・にある」
という、アイヌ語らしいごく単純な地名の奥に、まことに想像力をかき立てるなにかを持っている。
はるかに飛鳥朝や奈良朝の頃、彼らの日常であった狩猟と、彼ら以外の西から来た新しい人々が携えてきた稲作という営みが引き起こした摩擦は、どれほどのものだったろうか。
農耕はときに雨を待ち、日差しを待ち、雪解けを待つ。それにより暦が発達し、雨の降りかたを幾通りにも分類するような語彙が増えていったのは想像に難くない。待ち望むことや願うことは、言葉を作ることそのものであったかもしれない。
それに比べて狩猟文化の語彙の単純なことはどうだろうか。彼らには貯蔵や所有の概念が乏しかったため、暦を数え、季節の訪れを待つような可処分時間を持ち合わせていなかったかと思える。日々の飢えを埋めることに明け暮れ、会話の中に抽象や分類を多く作る必要に迫られなかったのではないか。
破間川はその支流にあたる黒又川とともに、会越国境から来る膨大な水量を絶えることなく越後平野に送っている。どちらの河川もダムを中流に持っており、現代ではは魚沼や越後平野の米作りのための水瓶に当たる川と言ってよい。
只見川との分水嶺上には南から未丈ヶ岳、大鳥岳、毛猛山、浅草岳、守門岳といったそれぞれ風貌を異にする決して高くはない山々が並んでいる。このうち浅草岳と守門岳は地質年代でいう更新世に起源を持つ比較的新しい火山である。どちらもが火山らしいたおやかで円錐形の裾野を持つが、面によっては豪雪に刻まれた深い渓谷、懸崖を秘めている。

とにかくもスモン岳という響きがいい。守門とは古代インドのいずこかの神の名であろうか、なんの根拠も持ち合わせていないがなんとなくそのように思える。鳥の巣を守る(スモリ)、という和語から来るという説もあるが、アプルマがアイヌ語であるならばその山頂もアイヌ語由来であってほしいという希望的な意見の側に私は立つ。
山頂周辺のピークには袴岳、袴腰、網張といった、いかにも江戸期風な名が付けられているのは、中世以降のことではないかと思われる。
その姿もいい。均整というのでもなく乱立というのでもない、あくまで穏やかな峰々が水を湛えているような豊かさ、湖のような山といえばうまく通るかもしれない。北面に更新世の爆裂火口の痕跡を持っているのだが、その本来の落差は豪雪により削られたようで、険しいというよりむしろ穏やかな表情に見える。
二月の下旬ともなれば私は越後の山々の表情がたまらなく見たくなる。四季のうちでこれほどにその肌の化粧をすっかりと塗り替える山が世界には他にあるのだろうか。

守門岳の最高点は1537mであり、八ヶ岳あたりならば通年で人が住んでいる標高である。しかし山頂から1348m地点にかけては北東から南西へと尾根が伸びている。この尾根はゆったりと平坦で、偏西風に対して垂直に、風向きを遮るように伸びている。標高が高過ぎて乾雪になるということはなく、暖流の流れる日本海から来る湿雪を一番手に受ける。雪庇ができやすい条件を比類なきほどによく満たしている。
事実、東洋一とか言われる雪庇ができており、どこまでが雪庇なのだかこの平坦地を歩いている分には全くわからない。山頂より東にある袴腰の方まで行ってこちらを眺めた時に、あれが東洋一の雪庇だったのかと全貌を知ることになる。
私は幾度も夏の破間川で雪渓を越えたり、潜り抜けたりしたことがある。破間川の源流は蛇行を重ねつつ大きく弧を描いて湾曲する。懐が深くて大滝がなく魚止めもない。全山がブナに覆われ水生昆虫が多い。支流にある湿原の周囲の細流ではイワナが繁殖しやすい環境があるらしく、湿原が魚の供給源になっている。
破間川は澄んだ水というのではなく、安山岩の岩塊の中から薄く濁るような、それでいて豊穣な水が流れてくる。初夏の破間川に来れば、蝉の声、笹原をぬける薫風、密生したブナとそれに絡むイワガラミの葉の擦れる音、それらを飽きることなく聞き続けることができる。
しかし同じ破間川の二月はどうだろう。無言で佇むブナの裸木、それ以外の全ての植物を埋めてしまった膨大な雪、雪崩の痕跡、視界にはそれくらいしか入らない。川の音だけが雪の下でかすかに息づいているのが察せられる。
ここではブナの葉が起点となり、緩やかな傾斜と雪解け水を動力源にして巨大な窒素の循環が行われている。厚く堆積した落葉を雪が押し続ける。高密度な腐葉土が、雨水を溜めるスポンジとなり窒素添加装置となって枯れることのない水源をなしている。
それらの滋養に満ちた水が破間川を流れる。黒又川を合わせて魚野川となりさらに信濃川へ流れる。
信濃川は江戸時代初期に治水灌漑工事が行われる以前は複雑に河川が分流集合を繰り返し、周囲に膨大な湿地帯を持つ葦の原であった。湾や岬を持たぬ新潟の海岸線は信濃川と阿賀野川の運んでくる膨大な土砂により日々日本海へと押し出していたことだろう。
そこを秋になれば背鰭を見せたサケやマスが一斉に川を上った。産卵を目指したそれらの魚が一定の落差を超えられず溜まった場所が破間川のどこかの滝にある大きな淵だったに違いない。秋になってそこにいれば何も手を加えずとも魚が無尽蔵にこの場所に登ってきた。それをひとつづつ銛で突いて引き抜けばよい。
アプルマの名を付けたアイヌの村は、そこにあった葦や笹で屋根を葺いただけの簡素な小屋であったことだろう。秋のいっときにこの場所にやってきては魚を捕り、また雪が来れば下流に降り、干した魚をアテにして冬を越したのではないか。そのような想像をしながら魚沼のインターチェンジを降りて破間川沿いの国道を遡る。県境を福島へと抜ける只見線の線路も健在である。
春の守門岳の旅は旧大原スキー場から始まる。今はなきスキー場のゲレンデをのんびりとハイクアップしていくとやがて尾根が細く急になる。これをキックターンでこなせば、サッカー場くらいはできそうな広大な雪原に出る。更に平坦地を進めば右手が東洋一の雪庇だが、どこから雪庇が始まるのかこの場所からは察することができないので容易には近づけない。

仕方なしに山頂へ向かうが、眼下の斜面に我慢しきれない時は足慣らしに本高知沢へ滑り込むのもよいだろう。山頂からはすぐ東に小さなコルがある。守門岳北面、穏やかな火口壁の景観を楽しみつつ北西の1149地点まで大胆にシュプールを刻もう。
ここから大きく東へトラバースして袴腰の北東尾根に乗る。袴腰を目指して途中からシートラに切り替え、山頂に立ったら越し方を見て、大雪庇をよく眺めるといい。

いよいよ袴腰東面の滑降であるが、ここは急峻で真東を向いており、雪が切れる時期が早いのでクラックを避けるような滑降になるだろう。400mほどの大滑降を終えたら再び守門黒姫のコルに向かってトラバースをかけていく。このあたりの破間川側に張り出した雪庇の下に雪洞でも掘れば快適なベースになるだろう。
翌朝はまずはのんびり黒姫に登りながら雪が緩むのを待つといい。春の守門岳は晴れていれば雪が緩むのは早い。黒姫の北面を快適に飛ばして870m付近で破間川を渡る。ここから守門烏帽子山の東尾根に取り付くのが良い。南西尾根は雪庇が出ておりスキー向きではない。守門烏帽子山は、その山頂に立つものは一年で何人もいないであろう、人には知られないピークだ。冬は到底1349mとは思えぬような風貌を持ち、烏帽子の名に恥じぬ全方位に急斜面を従えたピークである。北東、北西、西、南の各面があるが、そのすべてはシュプールを刻まれることはごく稀だろう。

これらの滑降を心ゆくまで楽しんだら、下山はルート取りをよく考えながら下黒姫沢を選択するのがいい。元気があれば1177mピークまで尾根筋を南下するのもいい。この尾根は途中で痩せてシートラを余儀なくされるが、1177mピークはその努力が報われるような美しい東斜面を隠し持っている。
ここに最後のシュプールを刻んだら下黒姫沢を快適に降るといい。小さな剱岳長次郎谷とでも呼びたくなるような、広く幅のある快活な谷だ。最後は林道に出て破間川本流にかかる橋を渡る。この橋には年によっては4-5mもの雪が積もっていて川床ははるか下に見える。当然、橋の手すりは埋まっていて橋幅は3m程度しかない。潔くスキーを脱いで、恐る恐る這って渡るのが賢明だと思う。除雪の隙間から車道に降りれば五味沢の集落が近い。

