※この物語はフィクションです。登場する人物・山小屋は架空のものです。
山の上では、秋の盛りと冬の始まりが、ほんの紙一重のところで隣り合っております。ナナカマドの燃えるような朱色や、ダケカンバの黄金色の葉が山肌を錦に染め上げたかと思えば、ある日ふいに吹き下ろす北風とともに、空の様子ががらりと変わる。それが十月半ばのこのあたりの習わしでしてね。ひと雨ごとに気温はぐんと下がり、やがて冷たい雨はみぞれに、そして音もなく降り積もる白い雪へと姿を変えていくのでございます。
今夜の霧ノ小屋のまわりも、夕方からしんしんと冷え込んでまいりまして、窓ガラスの向こうには細かな初雪が舞っておりますよ。ほら、薪ストーブの上の薬缶が、しゅんしゅんと心地よい歌を歌っているでしょう。相棒の三毛猫のおこげも、ストーブの前の特等席をしっかり陣取って、まん丸くなって寝息を立てております。こんな冷える夜には、体の芯まで温まるような昔語りが一番のお薬でございます。そうそう、ちょうど今頃の季節、雷鳥の冬毛が生えそろう前の、まだら模様の鳥にまつわる少し不思議なお客さんの話を思い出しました。今夜はそのお話をいたしましょうかね。

みぞれ混じりの扉を叩く音
あれは今から四、五年前の、ちょうど今夜と同じような十月中旬のことでございました。日中は秋晴れの予報だったのですが、山の天気というのは本当に気まぐれなものでしてね。昼過ぎから急激に西の空が鉛色に濁り始め、稜線はあっという間に乳白色の深いガスに呑み込まれてしまったのです。夕暮れ時になると、吹きつける風にみぞれが混じり始め、気温計の針は氷点下へと滑り落ちていきました。
私はランプの芯をひとつひとつ整えながら、今夜の泊まり客はもう誰も来ないだろうと、玄関の閂を下ろそうとしていたところでした。この季節の悪天候は、真冬と同じくらい危険ですからね。稜線に残っている登山者がいないことを祈りつつ、ストーブに太いナラの薪をくべ足した、そのときでした。
――トントントン、と。風の音に紛れるようにして、誰かが外の引き戸を叩くかすかな音が聞こえたのです。
おこげがぴくりと耳を立て、玄関のほうをじっと見つめました。慌てて戸を開けると、そこに立っていたのは、全身を白く凍りつかせたひとりの青年でした。唇は紫色に震え、肩にはうっすらとみぞれが積もっております。山用の大きな荷物を背負ったまま、私の顔を見るなり、張り詰めていた糸がふっと切れたようにその場に崩れ落ちそうになったのです。
「おお、大丈夫かい! よくぞ辿り着いた。さあさあ、中へお入りなさい」
私は青年の腕を支え、すぐに土間へと引き入れました。青年はかじかんだ指先で靴紐を解くこともできず、ただ小刻みに震えながら、「すみません、遅くなりました……」と消え入るような声で繰り返すばかりでした。濡れそぼった雨具とザックを素早く脱がせ、ストーブの前の長椅子へと座らせました。おこげが心配そうに青年の足元にすり寄ると、青年は弱々しく微笑み、おこげの頭にそっと手を伸ばしました。
まだら模様の小さな先導者
私はまず、乾いた毛布を青年の肩に幾重にも巻きつけ、土間の大鍋で温めておいた特製の生姜甘酒を大きめの椀に注いで手渡しました。自家製の味噌を隠し味に入れた、甘くて少し塩気のある熱々の甘酒です。青年は両手で椀を包み込み、立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込んでから、おずおずと口をつけました。
「……温かい。生き返るようです」
一口、また一口と甘酒を飲み干すうちに、青年の青白かった頬にぽっと赤みが差してきました。私は青年が落ち着くのを静かに待ちながら、濡れた靴下をストーブの近くに干してやりました。やがて青年は、深く息を吐き出すと、自分がここへ辿り着くまでの出来事をぽつりぽつりと話し始めたのです。
「実は……稜線の分岐の手前で、完全に道を見失ってしまっていたんです」
青年は視線を落とし、毛布の端を握りしめました。急な霧とみぞれで視界が十メートルも利かなくなり、目印のペンキも雪に覆われて消えてしまったのだそうです。携帯電話の電波も届かず、風の音ばかりが耳元で唸りを上げ、どこへ一歩を踏み出せばいいのか分からなくなった。寒さで手足の感覚が麻痺し始め、岩陰でじっとうずくまることしかできず、もう駄目かもしれないと諦めかけた――そのときだったと言います。
「足元で、クゥ、クゥ、と低く鳴く声がしたんです。風の音の合間に、とても穏やかな声が」
青年が目を開けると、すぐ目の前のハイマツの陰から、一羽の雷鳥がひょっこりと顔を出していたのだそうです。その姿が、なんとも不思議でしてね。夏の黒褐色と、冬の純白が入り混じった、見事な「まだら模様」だったというのです。
「頭と背中はまだ秋の茶色い羽が残っているのに、お腹や足元は真っ白な冬毛になっていて……まるで雪の服を半分だけ着ているようでした。その鳥が、僕の顔をじっと見つめたあと、くるりと背を向けてトコトコと歩き出したんです」
雷鳥は人が近づいても滅多に逃げない鳥ですが、普通は悪天候のときにはハイマツの奥深くに身を潜めているものです。ところがその鳥は、数歩進んでは立ち止まり、首をかしげて青年を振り返ったのだそうです。まるで「こっちだよ、ついておいで」と促すように。青年は夢中でそのまだら模様の背中を追いました。猛吹雪の中で、その白と茶色の小さな姿だけが、くっきりと道しるべのように浮かび上がって見えたのだと言います。
そうしてハイマツの縁を縫うように歩いていくと、ふっと風が和らぎ、霧の切れ間に霧ノ小屋のオレンジ色のランプの灯りが見えたのだそうです。青年が安堵して振り返ったときには、もうその鳥の姿はどこにもありませんでした。
色褪せたヤッケと祖父の祈り
「あの鳥がいなかったら、僕は今頃、稜線のどこかで凍えて動けなくなっていたはずです。でも、どうしてあんな荒れた天気配の中で、僕の前を歩いてくれたんでしょうか……」
不思議そうに首を傾げる青年の言葉を、私はうん、うん、と頷きながら聞いておりました。そして、青年の脱ぎ置いた雨具の下から覗いていた、少し古風な山道具に目を留めました。ストーブの横に掛けられたそのウインドブレーカー――山屋がよく「ヤッケ」と呼ぶ上着は、今時の鮮やかな化繊のものではなく、どこか懐かしい厚手の生地で、肩のあたりが陽に焼けて色褪せていたのです。
「お若い方、そのヤッケは、年季が入っていますねえ。とても大切に着込まれているようだ」
私がそう声をかけると、青年は驚いたようにヤッケを見やり、それから少し照れくさそうに目を細めました。
「これ、去年の冬に亡くなった祖父のものなんです。祖父は若い頃、北アルプスの山々を隅々まで歩き回った人でした。僕が山を始めたのも、祖父が楽しそうに語る山の話を聞いて育ったからなんです」
青年はヤッケの裾をそっと撫でました。祖父が病床で「もう一度、あの澄んだ秋の北アルプスを見たかったなあ」と呟いていたこと。だからこそ、祖父の形見であるこのヤッケを着て、祖父が好きだったこの稜線を歩き通したかったのだと、青年は語ってくれました。
「おじいさんのヤッケですか……なるほど、そういうことでしたか」
私はストーブに新しい薪を一本くべながら、穏やかに笑いかけました。
「昔からね、山では雷鳥のことを『神の使い』と呼んで大切にしてきました。特に、秋から冬へと羽が生え変わるこの時期の雷鳥は、季節の変わり目を告げる神聖な鳥だと信じられていたんですよ。けれどね、私はこうも思うのです。あの鳥を動かしたのは、山の神様のお導きはもちろんのこと、何よりそのヤッケに宿った、おじいさんの強い祈りだったのではないかとね」
「祖父の祈り、ですか?」
「ええ。おじいさんはきっと、愛する孫が自分の大好きな山で迷っているのを見て、じっとしていられなかったのでしょう。『あいつを無事に小屋まで送り届けてやってくれ』と、山の鳥に頼み込んだのかもしれませんよ。誰かを深く思う心というのはね、時として山の上では、不思議な奇跡を起こすものなのです」
私の言葉を聞きながら、青年はヤッケの胸元に顔を埋めました。生地から漂うわずかな樟脳の匂いと、懐かしい祖父の気配を確かめるようにして、静かに、ぽろぽろと涙をこぼしておりました。それは恐怖から解放された安堵の涙であり、温かい記憶に包まれた優しい涙でございました。おこげがそっと青年の膝の上に飛び乗り、前足でふみふみと毛布を揉んでやると、青年は涙を拭って、おこげの背中を何度も優しく撫でておりました。
三段紅葉の稜線へ
山の夜の嵐は、嘘のように足早に去っていくものでございます。翌朝、私が小屋の雨戸を開けると、そこには言葉を失うほどに澄み切った青空が広がっておりました。
前夜のみぞれは稜線の上部を真っ白に染め上げ、山肌の中腹にはナナカマドの鮮烈な赤とダケカンバの黄金色が輝き、そして谷底にはまだ青々とした針葉樹の深い緑が広がっていました。いわゆる「三段紅葉」と呼ばれる、一年のうちでもほんの数日しか見ることのできない、山が織りなす最高の一大絵巻でございます。空の青と、新雪の白、紅葉の錦が重なり合い、冷たく張り詰めた空気の中でキラキラと眩しく輝いておりました。
青年は早朝の温かい朝餉をしっかりとお腹に収め、すっかり血色の戻った元気な顔で土間に立っていました。背負い直したザックは心なしか昨日よりも軽く見え、祖父のヤッケの胸元には、朝の清らかな光が反射していました。
「宗爺さん、本当にお世話になりました。温かい甘酒と、あのお話、一生忘れません」
「いえいえ、無事で何よりでしたよ。見てごらんなさい、あの稜線を。おじいさんもきっと、青空の上からあなたと一緒に歩いていらっしゃいますよ」
私が指差す先には、昨夜の吹雪が幻だったかのように、凛として佇む美しい稜線がどこまでも続いておりました。青年は深々と頭を下げ、足取りも軽やかに、光り輝く雪と紅葉の尾根道へと歩み出していきました。見送る私の足元で、おこげが「ニャア」とひと声鳴いて、青年の背中を見送っておりました。
――さてさて、今夜のお話はこれでおしまい。
気がつけば窓の外の風もすっかり止み、初雪は静かに小屋の屋根を包み込んでいるようでございます。薪ストーブの炎も小さく落ち着き、赤く熾った炭が時折、パチンと心地よい音を立てておりますね。おこげもすっかり夢の中のようで、どんな山の夢を見ていることやら。
明日の朝は、きっと見事な銀世界が広がっていることでしょう。皆さんも、どうか暖かい布団に包まれて、よい夢をごらんください。明日の山道も、どうぞ足元に気をつけて。おやすみなさい、良い夜を。
次回の「山の来し方(こしかた)」は月曜日にお届けします。
語り部について
灯守の宗爺(ひもりのそうじい)
北アルプスの奥にあるという架空の山小屋「霧ノ小屋」で、半世紀にわたってランプの火を守ってきた語り部。夜、ストーブのそばで泊まり客に山の昔話や不思議な話を聞かせるのが何よりの楽しみ。小屋に住みついた三毛猫「おこげ」が相棒。
宗爺は、山旅旅編集部が生んだ架空の語り部です。この連載はAIの力を借りて執筆し、編集部が内容を確認して公開しています。


